第4回 いのちはみえるよ

 

「わたしがお母さんのおなかの中にいたときね、“おなかの中はあたたかいですか?どんな感じですか?お母さんの声が聞こえますか?わたしがお母さんですよ!!元気に丈夫に生まれてきてね。お母さんは早くあなたのかわいい顔がみたいなあ~。”って毎日たくさん話しかけてくれたんだって。」「よく動くから絶対男の子だと思ってたのに女の子だったんだよ。」・・・。子どもたちはみんな、お父さんやお母さんに聞いた話をとっても幸せそうな表情で発表してくれました。11月に全学年で取り組んだ、テーマ学習「いのちはみえるよ」の授業の中での一コマです。

 度重なる自然災害、止むことのない戦争、また連日のニュースを独占するおぞましい事件の数々。悲しいことに、私たちは人のいのちが簡単に失われていく現実を、日々目の当たりにして過ごしています。その事件の背景にある問題、戦争の実態、飢餓や病気に苦しむ人々の現状など、「いのち」へのアプローチは多岐に及ぶでしょう。そのアプローチが必要不可欠であることはわかっていましたが、正直、どうやって授業にしたらいいのかわからずにいました。「命を大切にしましょう」という薄っぺらな、表面的な授業にはしたくなかったからです。
そんな私の肩の力が、すっと抜ける出来事がありました。私事で恐縮なのですが、はじめての子どもを授かったのです。おなかの中で大きくなっていく「いのち」の存在を感じたとき、理屈抜きに「大切にしなくては。」という気持ちでいっぱいになりました。同時に、小難しい知識や社会情勢を教材としていのちを語ろうとしていた自分の傲慢さに気づいたのです。「生まれるいのち」のかけがえのなさ。とってもシンプルだけど、そこからでないと何も始まらない、そう素直に思うことができました。

 子どもたちの話は止まりませんでした。「元気に生まれてきてくれてよかった!やっと会えたね。かわいいね。これからなかよく楽しくくらそうね、ってパパとママがわたしを迎えてくれたんだよ。」「わたしの名前には”水晶“のようにきらめく女の子になってほしいという願いが込められているんだよ。山梨のことを忘れないように、水晶の「晶」っていう字をとったんだって。お母さんが病院に行くときは雷がなってすごい嵐だった。だけど、次の日帰ってくるときは、水晶のようにキラキラ光る冬の朝だったんだって。」・・・・・・・。生まれたとき、またお母さんのおなかの中にいるときの記憶はほとんどの子ども達が持ち合わせていません。だからこそ、小さいころの話を聞くことは新鮮であり、また自分がどれだけ多くの人たちに愛されて生まれてきたのかということ知るきっかけになるのです。大事に大事にされて生まれてきた自分。目の前にいる友達も同じくらい大事に大事にされて生まれてきた命を持っている。それをみんなで認め合えたらいいな、そう心から思いました。
  その後、ディスカッションの教材として子どもたちに読み聞かせをしたのは「いのちはみえるよ」(及川和男作・岩崎書店)という絵本。盲目のルミさんの出産に立ち会うことになった小学生のエリちゃんの心の成長が生き生きと描かれたストーリーです。「ルミさんがんばれ!」と励ましつつも「どうして赤ちゃんを生むときこんなに苦しいんだろう。もっと楽に生めたらいいのに・・・。」とエリちゃんは思います。けれども自分の苦しみよりも生まれてこようとする赤ちゃんに「がんばれ、がんばれ。」と伝え続けるルミさんの姿を見て「ママもこんなふうにしてわたしを生んでくれたんだ。」とエリちゃんは感動するのです。
「あ、わらったよ!」・・・。エリちゃんは出産後、ルミさんのそばでお手伝いをしながら赤ちゃんの様子を教えてあげます。そして思わず盲目のルミさんに対して言ってしまうのです。「ルミさん、見えたらいいね。」・・・。言った後、悪いことを言ってしまったと胸がきゅっとなるエリちゃんに対してルミさんは、「みえるよ、いのちはみえるよ。」と言って微笑むのです。

 子どもたちに問いかけてみました。いのちは見えるんだろうか・・・??
「見えないけれど、きっとむねの真ん中にあってハートの形をしていると思う。」「ルミさんはのぞみちゃん(赤ちゃんの名前)が泣いたり笑ったり、うんちをしたり・・・、のぞみちゃんの全部がいのちだと言っていると思う。」「目をつぶるとうれしいいのちが見える。うれしいいのちはほめられたときに見えるよ。・・・わたしはお父さんとお母さんとお兄ちゃんと妹で心をむすびあってると思う。お父さんとお母さんはわたしがさみしくなったとき、“だいじょうぶ”って言ってくれたよ。わたしはかぞくのいのちも先生のいのちもみんなのいのちがうれしいいのちになってほしい。」1・2年生クラスの子どもたちは自分のイメージする「いのち」の形を紙に描きながら、一生懸命それを見つめようとしていました。
3・4年生クラスでは、全員が「いのちは見える!」という意見でした。また、「もし大事な人が死んでしまってもいのちは自分の心のドアの中で見えるんだ。」という、いのちの連鎖の話にまで深まったのが印象的です。ある女の子はこんな文章を書いていました。
「わたしは命が見えると思います。どんなときに見えるかというと笑ったり泣いたり、おこったりしているときです。たとえば自分が笑えばその人も笑う。そんなことをやっているうちに相手の気持ちがわかり、命が見えてくるのです。命は世界のみんなとつながってます。たとえ知らない人でもどんなところで出会うかわかりません。なので命は生まれた時から世界のみんなとつながっています。」“いのちは家族とつながっている!”と最も身近な家族のことを話してくれた1・2年生とはまた一味違って、友達や動物、また最後には『まだ出会ったことのない世界中の人々』というところまで視野が広がっていった様子には脱帽でした。
5・6年生はさらに社会の現実に目を向けた意見が多く出ました。
「最近では自殺とか人殺しとかを勝手にする人が増えてる。だけどせっかくお母さんがいっしょうけんめい生んでくれた命なのにそんなことをするのは絶対にいやだ。」
また、思春期にさしかかる年齢だからこその意見も出ました。「わたしは命は見えないと思う。でも、友達とけんかして仲直りしたとき心がつながったと感じる。命がつながっていないとさみしいし、つまらないと思う。」いくらたくさんの友達と一緒にいても、ひとりぼっちでいるようなさみしさ。「いのち」がつながっていないと結局はいつまでたってもさみしいままなんだ、という『群れる』ことで得ている安心感の虚しさを彼女たちは敏感に感じとっているのです。
 
「誕生日はその人がこの世に生まれたことをお祝いする日。あなたが生まれてきたとき、どれほどみんなが感動し、そして喜んでくれたかを考えよう。ひとつひとつのいのちがみんな、かけがえのないいのちであることを絶対わすれないように。」
 こんな言葉を新聞で目にしました。
人生につまずいたとき、苦しくなったとき。みんながこんなふうに思えたら、この世界は少しは変わっていくような気がしています。

2005年が、どうかすてきな一年になりますように。

コラム