第7回 会ったことがなくても ともだちはともだち

両親、兄弟、祖父母、先生、友だち…。子どもたちはさまざまな人々に囲まれて生活しています。今回は、まったくの他人であるにも関わらず、楽しみや悲しみを共有できる「友だち」という存在に様々な角度からアプローチしました。
  まずはじめの題材として読んだ絵本は、内田麟太郎・作「ともだちや」。子ども達が大好きなオオカミとキツネの「ともだちや」シリーズ第一弾の絵本です。
 1時間100円で「ともだち屋」を始めることを思いついた寂しがりやのキツネ。しかし、商売はなかなかうまくいきません。そんな時、「トランプのあいてをしろ」と声をかけてきたのはオオカミ。トランプの後にキツネがお代を請求すると、オオカミは目をとがらせて怒ります。
「お、おまえは、ともだちから かねを とるのか。それが ほんとうの ともだちか!」
子ども達に問いかけました。 
“ともだちって売れるのかな? 買えるのかな。”
子ども達はいっせいに答えました。
「絶対に売れないし、買えない!」 「もし、誰かにお金をあげるから友だちになってって言われたらいやだし、なりたくない。」 「友だちって、いっしょに遊んだり、しゃべったり、ケンカしたりしながらつくるものだよ!」 子ども達は、自分の体験を心の中で思い出しながら、それぞれの思いを発表してくれました。

  次にみんなで読んだのは、谷川俊太郎・作「ともだち」です。
ともだちって かぜがうつっても へいきだって いってくれるひと。
ともだちって いっしょに かえりたくなるひと。  ・・・・・
わずか1行、2行ほどの詩とイラストが、子ども達に様々なことを投げかけます。みんなにとっての「ともだちって?」と尋ねると「学校を休んだ時にお手紙をくれるひと、ころんだときに手当てしてくれるひと、ひみつをいえるひと、大人になってもわすれないひと」・・・・・・・素朴で、心がほわっとする言葉がたくさんたくさん飛び出してきました。改めて、ともだちのいいところ、ともだちと助け合って生きている自分の存在を見つめることができたようです。 
この本の最後には、世界の国々の子どもたちの写真が出てきます。車椅子にのった少年がまっすぐこちらを見つめる写真のページには「どうしたら このこの てだすけができるだろう。あったことが なくても このこは ともだち。」という詩が、ふわふわのベッドに寝ている子どもと吹きさらしの屋根の下の地べたに寝ている子どもの写真のページには「おかねもちのこ まずしいこ どうしたらふたりはともだちになれるだろうか。」という詩が添えられています。子ども達はその写真を見て、口々に言いました。 
「お金持ちの子が、貧しい子にお金をあげればいいんだよ。」「お金持ちの子が、ゲームを貸してあげたらいい。」 「貧しい子がお金持ちの子の家に遊びにいけばいい。何でもあるから。」 意見は皆、『お金持ちの子⇒貧しい子』という図式で、「なにかをあげる(与える)」という意見しか出てきません。これでは少し矛盾するのです。さっき子ども達が言い切った答えと・・・。 
「友だちって、売ったり買ったりできないんじゃなかったっけ??」
子ども達ははっとした顔で言いました。
「ほんとだ・・・。」「そうだった・・・。」教室に沈黙が流れます。 「いっしょに遊べばいいんだ!おにごっことかかくれんぼなら、どこででもできるもんね。」 「とにかく会ってみないとね!話をしたら気が合うかもしれないね。」もちろん、全部のクラスの子ども達が「何かを与えればいい」という反応だったわけではありません。 「お金持ちでも貧しくても、ともだちになれるさー。助け合えばいいんだよ。」とはじめから言ってくれた子もいます。でも、圧倒的に前者の意見が多かったことは確かです。

 私は、「何かを与える・何かをしてあげる」ということがいけないことだとは思っていません。誰だって、自分よりも困っている人に出会ったら、何かしてあげたい、助けてあげたいと思うのは当然のことだと思うからです。 ただ、それは相手の気持ちや相手の置かれている状況をしっかり理解した上で、ということを忘れてはいけないのではないでしょうか。 私には、こんな経験があります。以前に働いていたスクールでのエピソードです。スクールでは毎年、食料不足が深刻な問題になっているアジア・アフリカの国々に送る「お米」を育てるための田植え・稲刈りやお米の輸送費を自分たちで生み出すためのフリーマーケットに取り組んでいました。世間一般に「すばらしい活動だ」と賞賛される中で、私達スタッフには悩みがありました。「持つもの」から「持たないもの」へ物が流れていく現実を目にした子どもたちに、「ぼくらは貧しい人達を助けてやってるんだ。」という傲慢な気持ちが生まれないだろうか、そこに人を思いやる気持ちがしっかり育つだろうか、という不安です。 そんな時、青年海外協力隊の任務で、実際に現地で生活してきた方に出会いました。彼は朗らかな笑顔で子ども達と私たちに語りました。「アフリカってね、すっごいステキな国なんだよ。自然もいっぱいあって、動物達もたくさん住んでる。それにね、アフリカの人ってすっごく歌がうまいんだ。でも、雨期と乾季があって植物がうまく育たない。だから、食料が少なくて困っている地域もあるんだ。」 私は、その時、大きな衝撃を受けました。私は何も知らなかった、いえ、知ろうとしていなかったのです。そこに暮らす人々のことも豊かな大地のことも。「貧困」というその一面だけを見て「何かしなければ」と必死になっていたのです。その頃から、私たちスタッフも子ども達も、この活動のことをこんなふうに表現するようになりました。「アフリカは自然も動物もいっぱいあってすてきな国。でも植物がうまく育たない。日本はお米が育ちやすい国だから、ちょっとでもお手伝いできたらいいね!」
稲刈りの時に、子どもたちは、自分の「写真」をノートにはってお米といっしょに届けました。 
「日本のぼくからアフリカのきみへ  ぼくと君ははじめてだけどなかよくしよう。・・・ みんなで作ったお米を送るので 食べてください」  “会ったことがなくても、子ども達の気持ちは まだ見ぬともだちともうつながっているんだ”ノートに書かれたメッセージを読んで、そう思いました。

ともだちと てをつないで ゆうやけをみた 
ふたりっきりで うちゅうにうかんでる ― 
そんなきがした 
ともだちと けんかして うちへかえった
こころのなかが どろでいっぱい ― 
そんなきがした 
ともだちも おんなじきもちかな   ( 谷川俊太郎・作「ともだち」より ) 

すぐそばにいてくれるともだち。 転校してしまってすぐには会えないともだち。まだ会ったことはないけれど、世界のどこかで今おなじ時間を生きているともだち。宝くじに当たるよりもすごい確率の「ともだち」との出会いを、たいせつにできる人になってほしいと思っています。そして、まず会ってみて、まず話してみて、まず遊んでみて・・・相手のことを「知る」努力をしていってほしいなと願っています。相手の尊厳を見つめること。そこから、人と人はつながっていくような気がするのです。

2005.12.09

コラム